まるでこれからも人生が続いてくみたいに夜が明けた

俺はいつでも、心のどこかで、すべてが報われること、あっさりとみんなと同じふうに暮らせること、明日がくることを想っているずるい人間だった。どこへ行っても何をしても、何かが終わったあとの自分を想像して、その空想のなかで生きていた。思えば本当に自分勝手な人生だったと思う。それは、今日死んでしまう俺でさえ、少しばかり惜しいことが思い浮かぶだけで、仕方ないなあと割り切れるほど。死が近いことを信じ切っている理由についてはあえて書かないが、最近の俺にとってもはや生きていることも死んでいることもあまり違いがない。死への恐怖、痛みを感じずらくなっている中だったのは幸運かもしれない。と、つらつらと死人になりきって指を動かしているが、案外これは突拍子もない話でもないのだ。そのくせ、明日を想像しながらさっきまで部屋を片していたし、このあと学校へ行ってあいつに誕生日プレゼントを渡して、隣の席の女には嫌われないように受け答えをするんだろう。匂い、音、表情に気を遣うんだろう。実際のところ覚悟なんてできていないはずだ。傷つかないように、臆病が高じて、受け身を取っているだけだ。でも、本気で、死ぬことを想い受け入れようと、へらへらしていることは死を克服したと言える唯一のことだと思っている。つまり、これは遺書だ。もしも、もしも明日の朝も目を覚ますことになったら、今までの自分が死に、生まれ変わる、という意味で、俺はそれなりの覚悟を決めている。面倒なことは嫌だから、死ぬなら死ぬし、生きながらえれれば儲けもの。それくらいの心持ちでいなければ死に怯え過ごす1日をやり過ごせないだろう。結局、心が決まってない、どっちつかずだな。本当に俺はいつでもすべてが変わること、始まること、終わることを信じている。昔俺のことをロマンチストと言った人がいたな。俺が名づけるなら不感症の夢見狂だ。

今日俺が死ぬとしたら、晩年と呼ばれる最近の日々はなんだかずっと夢を見てるみたいだった。ぼろぼろの身体で、路上で歌いながら、酒を飲みながら、女を3時間待って朝を迎えた、あんなに情けない夜は昨晩が初めてだし、初対面の酔っぱらった男が運転する車で向かった高台で、朝日を見ながら吸った煙草の味とか、噓笑いとか、コンビニの前でなんか食べてる背の高い名前も知らないいつもの女の子とか。でも、いろいろ忘れちゃったような気もする。訳も分からない、ぐちゃぐちゃの日々の中で出会った人たち、別に俺の毎日はすかすかだったけど、ひとりひとり想えばああなんか、生きてんだなって思う。それくらいしか、あの日々のことを思い出す手立てがない。

ところで、今日の放課後は横浜までライブを観に行くんだ。これは俺が今、ここまで終わりを感じている理由の一つ。Theピーズ。俺は高校に入ってから、紛れもなくピーズと生きた。聴かない日はほとんどなかったような気もする。そしていつでもピーズを歌っていた。ひとりでも、誰かといても。俺そのものだった。そんなピーズの大木温之に会いに行くんだ。初めてではないけど、最近の日々もあって、ピーズに対して呪いじみた想いが募りきっているこんなときに、夜に、一人で、制服で。そのことの重みを誰かに説明してもわかってもらえないだろうな。

なんだか、冷めてしまったよ。自分がまだ生きれるような気さえしてきた。それは何かを終わらす体力も始める体力もなくなったということ。単純に眠くなってきたってこと。でも、もうどっちかなんだ。いい加減にしなくちゃいけない。こんな日々いつまでも続かないと分かっていた。

夕方に起きてきて、テレビを見ながら思った。俺がこんなことになっても、今日死んだとしても、夕方になれば、木原さんとそらジローは明日の過ごしやすさを伝えてくれるし、あの娘は教室では居眠りをしてる、ばからしいけどそれが俺の希望なんだ。この先俺が死ぬとしても生きるとしても。

こんなに最低な日々と、最低な自分と、心中する覚悟はできてる。どうしようもない明日が来てしまうとしても、それはそれで、いいんだけど。ただ、今言えるのは俺は今日まで、なんとなく、はっきりと生きていた。それだけだ。ばかばかしい、こんな遺書を、今日も生きる俺と、死んだ後の自分と、生き延びた自分と、幸せになった自分と、不幸になった自分と大好きで大嫌いな世界と、いつかここを見つけたあなたに捧げたい。朝んなってもうどうでもよかった。朝んなっても眠い